三ヶ月分の給料未払いのまま、つとめていた会社が倒産してしまった。
経営者の舵取りひとつで会社は潰れてしまう。
行先不明の船に乗るのはだめだ。
やはり自分が船頭にならねば・ ・・。昭和四十六年、天下一品創業者 木村勉 三十六才の時であった。
しかし、何をするのかが問題であった。
手元に残るお金は三万七千円。
これで一体何ができるか?。
屋台でラーメン を食べながら「ハッ!」と閃く。
「ラーメン。これやったら、できるかもしれん・・・」
「金はないねん。けど屋台作ってくれへんか?」こう言うと板金職人の友人は「出世ばらいでええわ!」と快く作業にかかってくれた。
持つべきものは友達である。
「綺麗な鉢でラーメンを出したい」との思いから屋台初の湯沸かし器も取り付けた。
天下一を目指しつつ、京都で一番貧粗な屋台が完成した。
しかし困った、肝心のスープを炊く鍋が買えない。
ふと目にとまったのはガソリンスタンドに置いてあるペール缶。
ニオイがとれるまで、洗っては煮沸を繰り返した。こってりスープはこのペール缶から生まれた。
屋台やペール缶鍋の準備を進めつつ、ふと気づく。
「ん?ラーメンのスープってどうやって作るんやろ?」そこで知り合いの中国人のおじいさんに「鶏ガラベースのスープ」の作り方を教わる。
天下一品がこの世に産声を上げる為の最初のスープだった。
いよいよ天下一品屋台営業初日!
最初のお客さんは中年の男性だった。
しかしその日に売れたのは十一杯。
金額にして九百九十円ほど。
普通のサラリーマン並に収入を得られる一日百杯にはほど遠かった。
気が付くと食材を仕入れる金が一円もない。身の回りのものを質屋に入れて食材を買った。
質に入れるものもだんだん無くなり、最後に布団を持って行った時には「布団はええから金貸すわ」と言ってくださった。
本当にありがたかった。
商売を始めると直ぐに数人の男が現れ「ショバ代払え!」と脅かされた。
「おまえらに払う金があったら客にチャーシューつけるわい!」と断ると、殴られ屋台も壊された。
何度も同じめにあったが、包帯を巻きながらも商売を続けた。
そんなことを繰り返すうちに「こんな奴相手にしても金にならん!」と諦めてくれた様だ。
どこにでもあるラーメンではお客さんはどこかに行ってしまう。どこにもないスープを開発したい!
決まった場所で商売がしたい。
ある地主さんのご厚意で(現在天下一品総本店のあるビルが建つ前の)空き地を借りることができた。
それとともに屋 台の横に営業用とは別の鍋を置いてスープの開発も始めた。
着目していたスープがあった。
九州ラーメンに代表される豚骨スープだ。
豚骨独自のコクと旨みは必要不可欠で あるが、どうも豚特有のニオイが気にいらない。
鶏ガラをベースにあのコクと旨みが出せないものか?失敗の繰り返し。
しかし、これこそがスープの完成に必要なじかんだった。
スープの味を良くしていくとお客さんの数もどんどん増えていく。
スープの開発には実に三年。
「究極のコッテリスープ」の誕生である。
しかしそのスープは屋台の火力と設備では大量に提供できない
。「早く設備の整った店を構えてお客さんにこのスー プを味わってもらいたい・・」そんな想いは募るばかりだった。
開店資金も貯まりつつあったそんな時・・・妻が子供を連れて出て行った。
連日朝方までの仕事、自宅に帰ってもラーメンの研究に没頭、愛想を尽かされても仕方ないと思った。
開店資金は全て養育費に消えてしまい、また元の無一文になってしまった。
「また、一から始めるか・・」と思った頃、自分が屋台を出している空き地にビルが建つとの噂が流れた。「確実に追い出される・・」と感じた。